個人情報保護法と住基ネット
政府与党はこの秋の臨時国会での最重要法案として、通常国会で継続審議になった有事法制と個人情報保護法案を挙げ、成立を目指して全力を注ごうとしています。個人データの保護とは個人データのコンピュータ処理に伴う危険性を防ぐために必要な規制で、コンピュータの利用が高度化するにしたがって、欧米で発達してきた考え方です。同様に日本でも国民総背番号制が論議されるたびに導入が求められてきたものです。
だから、この八月に住民基本台帳ネットワークシステムが実施される以前に制定しておかなければならなかった法律であることはまちがいありません。保護法が成立していないのに参加はできないという自治体や、自分のデータをシステムに送るなという広範な声が沸きあがったのは当然なことだといえるでしょう。では、政府与党が主張するようにこの個人情報保護法案を成立させればよいというのでしょうか。そうではありません。この法案では私たちのプライバシーを守ることができないばかりか、人権にとって取り返しのつかない事態を迎えることになってしまうのです。
いま、国会に上程されている個人情報保護法案は、政府自身が「日本方式」と呼んでいるように世界のデータ規制法の流れとはまったく異なるものです。そのポイントは「個人情報」という日本語の中にあります。世界では事前規制の対象を「データ」に絞り込んでいるのですが、「情報」にしてしまうと、そこには「報道」や「表現」といった事前規制になじまないものが含まれてしまうのです。これを事前に規制するのはいうまでもなく検閲で、憲法違反です。世界もそれを許してはいません。
したがって報道や表現が他人を傷つけた場合でも、その解決は事後(公刊・公表を待たずとも書かれたり制作された段階で可能)に裁判で判断するほかはありません。表現を巡り、プライバシーばかりではなく他の価値(報道・表現の自由、知る権利、公人・私人のちがい、内部告発などの社会的利益)との間での検討が必要だからです。ザル法ではありますが、すでに日本にも保護法はあり、これを「行政機関が保有する電子計算機処理に係わる個人情報の保護に関する法律」といいますが、これには「電子計算機処理」という言葉が入っています。これによって、規制対象を「情報」ではなく「データ」に絞り込んでいたのです。
でも、これでは絞り込みすぎで民間に対する規制もなければコンピュータ・データ以外のマニュアル・データにも規制が及びません。1988年に制定された当時から、こうした批判を浴び、五年以内の改正が求められていた(衆参両院で付帯決議がされていた)のです。
つまり、88年法の中身を充実させ(規制対象の明確化、個人データの自己管理権の厳格化、第三者機関による監視、罰則や回復措置の制定など)、これを民間やマニュアル・データにも順次拡大する。これが必要だったのです。しかし、ついに政府はこの約束を果たさぬまま、「電子計算機処理」という言葉を振り捨てた、まったくの新法を持ち出してきたのです。
この小さな言葉のトリックによって、法が意味するものはまったく異なってしまいました。表現の事前規制に道を開いた。このことにメディアはビビッドに反応しました。「法案には報道規制、メディア規制の狙いがある」。同時に法制化が検討されていた「人権擁護法案」「青少年有害社会環境対策基本法案」とともに個人情報保護法案は「メディア規制三法」と呼ばれ、メディアの猛反発に会って成立の見込みが立たなくなります。
政府も早々と修正を口にし、政府の意向を受けた形で読売新聞がメディアを除外した修正案を発表。この修正案はお粗末にすぎ、他のメディアからは見向きもされませんでしたが、臨時国会ではもう少し譲歩した公明党案なるものが出てくるものと予想されます。
しかし、これもメディアの除外規定をより拡大するだけのもの。この法案が報道規制であるばかりか表現規制でもある点を反省しようとするものではありません。というより、規制対象を「個人情報」という雲をつかむような膨大なもの(ここには身ぶり手ぶり、態度や表情、服装なども含まれます)にしてしまったら、もう修正では済まず、廃案にするほかはないシロモノなのです。
その意味では、「メディア規制」として反対してきたメディアの論調も、けっして素晴らしいものとは言いがたく、「メディア除外」の修正案に乗ってしまいかねない危険性を持つものだといえるでしょう。重要なのは個人情報保護法案が狙うものはメディア規制にとどまらず、インターネットなどを含む個人の表現規制なのだということです。表現の自由の圧殺、言論統制の始まり、これを見逃すわけにはいきません。法案の流れを1969年からウォッチングしてきた筆者から見て、今度の個人情報保護法案はけっして有事法制と連動して構想されたものではありません。しかし結果的にはみごとにシンクロしています。これを時代の風といえばいいのでしょうか。とすればわたしたちはいま、この風と闘わなければならないのでしょう。
現代の総力戦は軍だけで闘うわけにはい きません。そこで軍民の接点を軍が仕切るために制定されようとしているのが一連の有事法制です。が、これも戦争の「正面」として必要なもの。「後方」では、戦争を支える民衆の動員(物理的、精神的)が必要で、これを担当してきたのが内務省(現在の自治省→総務省)。住基ネットと個人情報保護法案は、この総務省がつくったものです。
住基ネットはやがて国民総背番号として戸籍や納税番号を飲み込み、効率的な戦時動員(徴兵・徴用)の資料として活用され、これに反対する「非国民」をあぶり出す恰好の道具として整備されていくにちがいありません。個人情報保護法案が成立すれば、あらゆる表現媒体に国家が介入する口実を与え、戦前の治安維持法状態が生み出されます。
こうなればメディアは戦意高揚のための自主企画と、大本営発表のデマゴギーの流布機関に成り下がります。メディアの横暴を第四権力といって批判するのはいいのですが、第一権力がその気になったらひとたまりもない、民衆の支持だけが力の源泉であることを、メディアも民衆も自覚すべきです。
メディアは民衆から離反すべきではない。民衆はメディアを安易に見捨てるべきではない。政府自民党のメディア規制の動き(自民が在野に下って新進党政権ができて以来、自民はメディアを敵視し、TBSを主要なターゲットとしつつ、規制を画策してきた)もあって、自己規制という名のメディアの権力へのすりより、メディアの権力志向、これが極限に達していました。メディアと民衆は切れる寸前にあったのです。自民党の圧力に押され、あらぬ方向へと姿を変えてしまった個人情報保護法案は、眠らされつつあったメディアを目覚めさせました。死語になりつつあった「社会の木鐸」としての使命を思い出したのです。社のトップがメディア規制三法に反対を表明したため、一線の記者たちは燃えています。
そして、この「社会の木鐸」としての表現活動が、三年前に成立し、稼動寸前になっていた住基ネットに向けられました。「個人情報保護法の成立が前提だったのに、おかしい」「このままでは個人情報が危ない。住基ネットを見直すべきではないか」。こうした記者たちはいま、ほかの分野でも報道の使命を思い出し、表現の自由を守ろうとし始めています。
情報社会の高度化に伴い、コンピュータ・データはさまざまな危険にさらされています。そのため個人データの保護法はどうしても必要です。しかし、これは国民総背番号制(住基ネット)と共存できるものではありません。
人々に単一の通し番号を振りデータを集めることは、データを利用する者にとって、きわめて好都合です。利用する者のなかには悪意の利用者もあれば、外国の諜報機関員もあります。こうした危険に「国民」をさらすわけにはいかない。この考えは欧米では普通のことです。住基ネットはデータ保護に反するものなのです。必要な個人情報保護法は「情報」一般を規制対象とするのではなく、デジタル・データ、マニュアル・データに限るべきです(あるいはこれに「寸評」などを加える)。これによって政府が「表現」に介入することを防がなければなりません。これによって「報道」も自動的に規制対象から外れます。
個人データは規制を受けますが、事前規制である以上、なにがいけないかの基準が明確でなければなりません(これがあいまいだと映倫のような天下り機関が大量に発生します)。差別を生み出すセンシティブ・データの収集禁止規定も必要です。この規制はメディアも対象にします。しかし、報道目的での収集利用は許されます。差別をなくすためのキャンペーンに必要なデータは規制されない、ということです。ここで言っていることはみなヨーロッパで実現されていることです。日本が賛成している国際条約が目指していることでもあります。
ゲシュタポ(ナチ政権下の秘密警察)は克明に調査した個人データを記した手帳を駆使して、ユダヤ人の排撃を行いました。同時に人々から表現の自由を奪い、メディアを徹底的に規制しました。ヨーロッパはその記憶を捨ててはいません。おなじことが戦前の日本でも行われていた。このことを私たちが忘れてはならないと思います。個人情報保護法案に反対し、廃案にすると同時に、住基ネットの本格稼動を止めさせましょう。そして国際的にも通用する本来のデータ保護法を制定しましょう。
佐藤文明(2002・09・15)